番外編:純正律のお話

 

 

純正律のお話をします。

 

①「周波数」という言葉について

②和音がハモるとはどういうことか

平均律とは何か

純正律とは何か

 

どうしても物理の話が絡みますが,正確さを犠牲にしてなるべく物理の言葉を使わないようにします。

 

 

①「周波数」という言葉について

1オクターブ上がると周波数が2

 

「周波数」 という物理の言葉があります。「振動数」とほぼ同義ですが,この記事では「周波数」で統一します。周波数は,高い/低い,という使い方をして,周波数が高い音はいわゆる高音,周波数が低い音はいわゆる低音です。

 

周波数は,1秒間の振動のサイクル数のことを指し,1秒間に◯回のサイクルで振動しているとき「この振動の周波数は◯Hzだ」と言います。「Hz」は周波数の単位で「ヘルツ」と読みます。そして音は振動のひとつです。◯が大きいほど周波数が高い振動,すなわち高い音です。

 

例:「500Hzの音」は,「200Hzの音」よりも高い

チューナーに表示される「442Hz」も周波数です。あれはAの音を442Hzと決めて,そこから他の音の音程を決定していく,ということです。

 

周波数が2倍になると,音は1オクターブ高くなります。

(ex.880Hzの音」は,「440Hzの音」の1オクターブ上の音)

 

周波数が2倍の2倍,つまり4倍になると,音は2オクターブ高くなります。

(ex.1760Hzの音」は,「440Hzの音」の2オクターブ上の音)

 

1オクターブは周波数が2倍」を覚えてください。

 

 

②和音がハモるとはどういうことか

・和音に含まれている音の周波数の比が,簡単な整数の比になると,ハモる

 

和音がハモる,とは「和音に含まれている音の周波数の比が,簡単な整数の比になること」です。「簡単な整数の比」 というとどれくらいが「簡単」なのか線引が難しいですが,1:2:3とか10:12:15とかそれぐらいが「簡単」だと思ってください。1000:1059:1122とかは「簡単ではない」と言えます。

 

ex.440Hzの音」と「880Hzの音」の和音を考えます。

周波数の比は440:880=1:2で「簡単な整数の比」と言えます。よって,この和音はハモります。①でも書いたように「周波数が2倍=1オクターブ」なので,この和音は1オクターブ(8度)です。そりゃハモります。

 

ex:440Hzの音」と「660Hzの音」と「880Hzの音」の和音を考えます。

周波数の比は440:660:880=2:3:4で「簡単な整数の比」と言えます。よって,この和音はハモります。この和音は(あとで詳しく書きますが)「下のAE・上のA」でハモります。いわゆるパワーコードです。

 

 

平均律とは何か

・半音上がると周波数が1.059463

・複雑な数字ばかりなので,ぴったりハモらない

 

①で書いたように「1オクターブ上がると周波数が2倍」です。

 

では1オクターブより短いとどうなるのか。2倍で1オクターブ上,1倍で同じ音であることから,周波数が1.5倍とか1.25倍とかになると,5度とか3度とか上の音になりそうな気がしてきます。さてこれをどう考えるか。

 

1オクターブは半音12個だから,「2倍」を12分割すれば,半音上がるためには周波数が何倍になればよいか,がわかりそうです。ところが,これは単純に212で割るわけにはいきません。ここがちょっとだけ難しい。

 

今分かってることは「上のドの周波数は,下のドの周波数の2倍」ということ。 ということで「ド♯の周波数は,ドの周波数の☆倍」とします。つまり,半音上の音を作りたいときは,周波数を☆倍にしてくださいね,と決めるわけです。いまから☆の数値が具体的にどうなるかを計算します。

 

ドの周波数を☆倍にするとド♯の周波数になります。ということは,もう1回周波数を☆倍したら,もう半音上のレの周波数になります。最初のドから考えると☆倍の☆倍です。

 

これをもう1回☆倍したら,もう半音上のミ♭が出てきます。これは最初のドの☆倍の☆倍の☆倍です。

 

これをもう1回以下略

と半音ずつ上がっていって,1オクターブ上のドになるまで続けます。1オクターブは半音12個だから 1オクターブ上のドは,最初のドの☆倍の☆倍の・・・・・(12回繰り返し)・・・・・の☆倍」となります。 つまり☆を12回掛け算したら2倍になります。この☆を逆算すればいい。

 

これを求めることは手計算ではまず無理なので,電卓に頼ります。電卓さんによると☆はだいたい1.05946ぐらいらしいです。かっこよく言うと「☆は212乗根」 です。

 

この「1.05946倍」を使って,最初のドの周波数の何倍か,を書くと

ド  1

ド♯ 1.059463

レ  1.122462

レ♯ 1.189207

ミ  1.259921

ファ 1.334840

ファ♯1.414214

ソ  1.498307

ラ♭ 1.587401

ラ  1.681793

シ♭ 1.781797

シ  1.887749

ド  2

になります。ご覧の通り長ったらしい複雑な数字になります。しかも上の数字は「割り切れない」ので四捨五入しています。 

 

このような周波数の比で定められる音階を「平均律音階」と呼んだりします。そして,こんな複雑な数字ばっかりの平均律では,②で書いたみたいな「周波数が簡単な整数の比」にはなりません。唯一オクターブだけが12となるのでハマりますが,それ以外は全然ダメです。 

 

和音という側面から考えると平均律はちょっと不便なんです。

 

 

純正律とは何か

・ハモらない平均律を,ちょっとだけいじってハモるようにするのが純正律

・そのいじった分が,「メジャーの第3音は低い」「マイナーの第3音は高い」みたいなやつ

 

たとえばさっきの表で,「ドミソ」の和音(メジャーコード)を考えてみます。

ド 1

ミ 1.259921

ソ 1.498307

周波数の比は,ド:ミ:ソ=11.2599211.498307 です。これは「簡単な整数の比」にはなりません。ならないので,なるべくこれに近い音程で高くしたり低くしたりして,無理やり「簡単な整数の比」にしてしまおうというのが純正律の考え方です。

 

メジャーコードの場合だと,

ミの1.259921を無理やり1.25に下げて

ソの1.498307を無理やり1.5に上げてしまいましょう。すると,周波数の比は

ド:ミ:ソ=11.251.545

と「簡単な整数の比」になります。つまりハモります。平均律から考えると,ハモるためにはミ(3)を下げて,ソ(5)をちょっとだけ上げるという操作が必要になります。

 

「ドミ♭ソ」の和音(マイナーコード)についても同じように考えることができます。この場合だとソの上げ方はさっきと同じで,ミ♭を上げて1.189207から1.2にすると

ド:ミ♭:ソ=11.21.5101215

となってさっきより見た目の数字は大きいですが,これも「簡単な整数の比」とみなせます。平均律から考えると,ミ♭(3)を上げて,ソ(5)をちょっとだけ上げるという操作が必要になります。

 

7th9th以上のテンションコードについてもハモりたければ近い周波数に上げ下げすればどこかでハマると思いますが,テンションについては必ずしもハモるのが正解とも言えません。もっというとマイナーコードの3音は,はめたらはめたでマイナーの割にスッキリしてしまうので,敢えて平均律で押し切るという手もあります。

さらに若干原理主義的なことを言うと,本来ならば,「ルート音がぴったしの音程」ではなく「その調の根音がぴったしの音程(B♭durならB♭)」とすべき,な話もあったりするので,そうなると低音が音程いじってねみたいな話になるんですが,吹奏楽曲は転調が多いので(狭義な意味でのクラシックではないので),低音は基本平均律ベースでいつでもぴったし,上に乗っかる楽器が合わせる,という解釈をすることが多いように思います。個々の判断になるので,指揮者や音楽監督に従いましょう。

 

ちなみに純正律と一言で言っても色々あるらしく,この文章では一番古典的なピタゴラス音階を元にしました。多少は正確性を犠牲にして記述しましたのでご容赦願いたいですが,明確な誤りがあればご指摘いただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

かっこいいものに憧れるというお話

ぼくがかっこいいと思うもの。たとえば,万年筆,ウイスキー,煙管,射撃,ジビエ,ビリヤード。完全に厨二病をこじらせている。すぐに手を出せないものばかりだから,今まではウイスキー以外ほとんど触れてこなかったけれど,社会に出てお金と自由を手にしたいま,どうしようかとぼんやり考えている。憧れのものを手に入れる気分というのはどういうものなのだろうか。味わったことのないワクワク感に満たされて,ぼくの心はちょっぴり幼くなった。

完成品をどうするかというお話

ものを作るのは好きだけどできあがったものの処理に困る,という体験をしたことのある人はわりと多いのではないかと思う。たとえばぼくは折り紙が好きなのだけれど,一通り折りたいものを折ったあと,できあがった作品(というか紙屑)をどうするかというところでいつも悩む。飾るには貧素だし,そもそも置く場所がない。すぐ捨てるのもなんだか勿体無い。結局,数日後に熱が冷めてそのままゴミ箱行きになる。ちょっぴりはかない気持ちになる。

 

そんなメンタリティにぴったりなのが料理だ。作ったら食べればいい。食べられるものさえ作れば処理に困らない。食費の節約にもなる。いいことづくしである。ものづくりが好きだが作品の処理に困っている方々には是非とも料理をおすすめしたい。そんなことを言っておいてあれだが,ぼく自身はものづくりが好きなものの根っからのズボラ体質なので,よほど暇で元気で暇じゃないとコンロすらつけない。仕方がないので半年前に折った鶴を食べた。ホコリとインクと平和の味がした。

個人的意見の集合体は世論であるかというお話

個人的意見を寄せ集めると世論になるのだろうか。

 

「一般的意見」に同調できないとき,ぼくは「ぼくの感覚は変なんだな」と思う。これは一般的にそうであるということにしておく。一般的意見は,一般的に,多くの人の同意を得られるものだと思う。だから,一般的意見に同調できないときは,ぼくの感覚が一般的じゃないということだ。ある一般的意見に対して,多くの人が同意していないとき,その多くの人の各々が,「ぼくの感覚は変なんだな」と思う,とぼくは思う。その一般的意見が本当に一般的かどうかについて考える人は,ほんのわずかだろう。もしかしたら,誰も同意しない一般的意見があるかもしれない。みんなが知らんぷりしているだけで,実は全然一般的じゃない意見が一般的意見として知れ渡っているかもしれない。そして,一般的意見のもつ力は絶大だ。ぼくの意見も,ぼくの意見と同じ意見をもっている人の意見も,一般的の名のもと,ぺしゃんこにつぶしてしまう。一般的であることは強いのだ。強い。

 

ここまでが前座。

 

理科教育界隈でよく主張される通説のうち,ぼくの大嫌いなものがとりあえず2つある。「日常生活との関連を扱わないといけない」と「理科嫌いを減らさないといけない」の2つである。

 

まず日常生活云々について。端的に言う。ダサい。「日常生活のこんなところに物理/化学/数学etc が使われてますよ〜〜」として提示される例がとにかくダサい。ダサいうえに,そもそも使われ方が全然わからない。製品技術と物理学との間にギャップがあるし,物理学と高校物理の間にもさらにギャップがあるし,そこをなんとか関連付けようとして却って無理が生じてしまっている感じがなんかもう本当にダサい。そんなもので高校生の興味を惹こうとしているのが信じられないし,馬鹿にしているんじゃないかとすら思える。……と当時高校生のぼくは感じた。今でもあまりに薄っぺらいものは嫌いである。書くならちゃんとごまかさずに書けと思っている。

 

次に理科嫌いを減らそう運動について。そもそも理科嫌いを減らさないといけない理由もよくわからないんだけど,それは置いておく。理科嫌いを減らすためにどういうことが行われているかというと,数式を出さずに物理を考えたり,色が綺麗な化学実験をしたり,かわいい小動物の映像を見たり,要は理科以外の部分で引きつけようとしていることが多い。理科の授業を楽しく乗り切ることしか考えてないのだろうかと思うような授業実践が,我が物顔で紹介されていることも少なくない。学年が進むにつれて(=ごまかせなくなるにつれて)無理が発生するのも仕方ないな,とも思えてくる。……と当時大学生のぼくは感じた。今でも過度な実験ショウは嫌いである。授業するならちゃんとごまかさずに授業やれと思っている。

 

ぼくはこういうふうに思っているのだけれど,少なくともどちらも,一般的意見には反しているように感じている。でも,こう思っている高校生とか,大学生とか,大人とか,結構いるんじゃないの,とも信じている。実際はどうなんでしょうね。学生が受けたい教育と,大人が施したい教育って,どれくらい違ってるんでしょうね。

点対称の要素を書籍に載せるなというお話

 
・以下のぼくの主張と同じことを言っている本 と
・以下のぼくの主張と逆のことを言っている本 を
 募集します。
 
〜〜〜 
 
縦書きの本は,「上から下」かつ「右から左」へ読む。ページは「左から右」へめくる。一方で横書きの本は,「左から右」かつ「上から下」へ読む。ページは「右から左」へめくる。縦書きにせよ横書きにせよ,ここには明確な傾斜があって,視線は常に高いところから低いところへ流れていく。通常の日本語の文化に属する限り,紙の上を走る視線の流路はいわば谷間の清流のように無意識に規定されていて,逆に言えばこの流れを乱すような文字の配列は,芸術的価値は措くとして,スムーズな情報伝達という観点からはあまり望ましいものではないのかもしれない,と最近になって思い始めた。少なくとも大多数の日本人は「そう」読むはずだ。だから,本の中へ文字以外の要素を入れるときも同様であって,決してこの無意識の視線の流れを乱してはいけない,と信じるようになった。
 
要はスライド作成などでよく言われる「発表の流れは左から右へ,上から下へ」というやつである。普通に読んですんなり理解できる形に組み立てろという訓戒だ。視線の動きをこちらがいちいち誘導して聴衆に努力を強いてなんとかこちら流に理解していただくぐらいであれば,最初ッから普通の流れのうちに埋め込んでおけという話。日本語の暗黙の了解である「前から後ろへ読んでいけばとりあえずは読み解けるはずである」にもっと頼るべきなのである。そりゃ確かに,内容が複雑であるほど,それを美しい形にまとめ上げたくなる(=人にもよるが多くの場合これが「点対称な形」に落ち着く)気持ちも,ぼくのなけなしの美的感覚を以てして理解できなくはないのだけれど,それはほとんどのケースにおいて自己満足で終わる。点対称の要素というのは見た目は綺麗だが読み解くとなると途端にやりにくい。どこから崩していけばよいかがわからないからである。力学からのアナロジーで言えば,読者の視線が外側をぐるぐる等速円運動するのみで,全然中身に視線が至らない。だから書き手のほうで敢えて傾斜をつけておいて,その傾斜にしたがって視線を動かしていけばすんなりと内容が頭に入るような,そういう組み立て方をしないといけない。んですよ。ほんとにね。
 
「書き言葉は前から後ろに読む」「話し言葉は前から後ろへ聴く」という人間の言語の大原則をしばしば忘れがちになる。読んでいる/聴いているときは,後ろのことなんかわからないんです。もっとそういうことを意識して,本を作っていきたいな,と思うのでした。

素人と玄人と

アマチュアがパソコンで作った音楽には,どこか素人臭さがある。
自分の作った曲の素人臭さが嫌になって,ぼくは作曲をしなくなった。
 
素人臭さ,なんて主観でしかないんだけれど,ひとつひとつの音に詰まっている空疎さ,と言うべきか,パッと聴いてすぐわかる違和感,とでも書けばよいのか。手抜き感というか,安っぽさというか,それを表現するためにひねり出されるあらゆる言葉自体が安っぽい罵倒になってしまうような,なんともいえないチープさを感じてしまう。「プロ」に言わせれば,プラグインの使い方がなってないとか,文字通り安いソフトシンセしか使っていないとか,コード進行のセオリーからはずれているとか,そういう批判が出てくるのだろう。でもぼくは,残念ながらそういう要素ごとの未熟さに気づけているわけじゃない。ボトムアップ的な総合評価として「素人臭い」と表現しているのではなくて,できあがった楽曲を聴いて,「総体としてダサいよね」という感じなのである。
 
7年ほど前に数万円の機材を買ってデスクトップミュージックを始めてみたものの,たいした勉強もせず見よう見真似で出来上がった曲は,こじんまりしたものばかりだった。そして,インターネットを徘徊して,日本中の素人様がお作りになった楽曲を聴いていくうちに,パッと聴いて違和感のない曲を生み出すためには,お金で買える「プロっぽさ」をある程度まとわないとハナシにならない,とまで思うようになった。そこに至ってぼくはこのくだらない課金ゲームから足を洗った。
 
足を洗った。
 
素人である自分の作った曲の素人臭さが嫌になって,作曲をしなくなる,というのはすごく悲しいことだと思う。自分に勝手に「素人性」なるものを見出して,でも自分の中のそれを認めたくないがために作曲自体をやめた。素人でありたくない,素人として見られたくない,という気持ちが良くないとかいう卑しい話ではなくて,最初はみんな素人なんだから気にしないほうがよい,とかいう道徳的な話でもなくて,ぼくの未来のすみっこに無音のブラックホールができてしまったような,ぼんやりとした悲しさを覚えた,というのを素人臭い文章で書いてみた。
 
文章の素人臭さ,なんてね。ぼくは文章を書かなくなるのだろうか。嫌になって。

もしもですね。

原作ならびに映画の『屍者の帝国』のネタバレを含んでいるとしたら一体あなたはどうしますかと。

 

池袋のシネマサンシャインで映画『屍者の帝国』を観た。伊藤計劃円城塔の共著である原作小説は1週間ほど前に読み終わり,ほどほどにストーリーを忘れた頃に映画を鑑賞するという良い巡り合わせである。

 

原作は,一言でまとめると「読みにくかった」。ぼくはどうも円城塔と相性が悪い。『Self-Referene ENGINE』に手をつけるもまるで頭が追いつかず,滅多打ちにされながらもなんとか読み切る。もう二度と読むかと誓ったのも束の間で『後藤さんのこと』を購入し,こちらは短編集ということもあり,4割ほど進めたあたりで本棚の肥やしになっている。そうなのに,「ほとんど円城塔の文章」である『屍者の帝国』を買ってしまった。映画を観るためという強いモチベーションがあったので最後まで読んだが,円城塔の情景描写とぼくの思考様式が合わないらしく,場面場面がぶつ切りになってしまう印象を受けた。でもまぁ,映画になったらそのへんを視覚で補完できるだろうと思い,意気揚々と池袋の地に降り立ったわけなのである。

 

原作にはいくつも好きな要素があったが,映画化に際してそのほとんどがなくなってしまい非常に残念に感じた。任意の文字列を生成できる暗号文,意識を規定する言語,ザ・ワン=アダム説,etc.。あの厚さの原作を2時間で収めること自体に無理がある中,酷な要求になるのかもしれないが,ザ・ワンが花嫁を求めることも説明不足であったし,ワトソンがウォルシンガムと接触するくだりもずいぶんあっけなかった。日本編なんてどれだけ削ったんだよと。フライデーの設定が変更されていたのは,あれはあれでよかったと思うけど,結局のところ,作品全体の軸に,構築した世界観の説明・冒険ではなく,登場人物の間の関係性・ドラマ性を据えたものになっていて,死んだ友人を復活させるためにがんばる,ただの感動モノになってしまっている感じが否めない。曲がりなりにも原作を読んだぼく,『虐殺器官』『ハーモニー』も合わせて読んだぼくとしては,そうじゃないんだよ,屍者技術の発展した「ありえた世界」をもっと楽しみたかったんだよ,と,叫びたい次第なのである。

 

とはいえそもそも原作が非常にわかりにくいので,よく映像にしたなという気持ちも多分にある。それに比べれば,純に伊藤計劃の著作である『虐殺器官』『ハーモニー』はずいぶんとわかりやすいものなのではないかと思っていて,したがって映画のほうも相当に期待をしている。『ハーモニー』はね,予告だけでしびれたよね。すごく楽しみにしています。