電車と物理とハンナ・アーレント

都内の自宅から関西の実家まで在来線で帰省する,という暇なこと(しかも青春18きっぷではなく)をした。10時間程度の道中,景色を見つつ飽きたら本を読む,本に飽きたら窓の外を眺める,というサイクルで,1冊弱消化した。新書と文庫を1冊ずつ並行するという浅い読み方から相変わらず脱却できていないのだけれど,何か文字を読んでおかないといけないような漠然たる不安があって,読み終わった時のことも考えて常に3冊程度は携帯するようにしている。携帯をいじるよりはいいだろう,ぐらいの。

 

ちょっと前までは,日本における科学のあり方,みたいなものに興味があって,科学哲学まわりの本を読んでいたのだけれど,最近その興味が政治哲学のほうに移ってきた。科学史→西洋思想→近代主義とかそのへん→政治哲学,という感じですね。政治の実務について何も知らないのに,政治哲学に興味を持つというのも随分変な話だなぁとか,自分がまさか政治にまで手を出すなんてとか,形ばかりのブレーキを自分に課しつつも,内心はけっこう,変わったことをしているつもりの自分を楽しんでいます。

 

何を道標にして生きたらいいのか,本当にわからなくなってきているな,という気持ちを最近ぼんやり抱きます。科学哲学に興味を持ったのも,科学の持つ力がちょっと過大評価されてはいないだろうか,という疑問が生じたからです。「数式や科学の言葉で世界の有様を客観的/没価値的/中立的に記述する」という自然科学全体のモチベーションが,どこまで有効なのか,という疑念をどう乗り越えたらいいのか,なんとか答えをひねり出したいという願望は依然持っています,そのヒントとして,西洋思想史からの政治哲学,悪い経路じゃないと思うので,またのんびり本を読んでいこうと思います。

科学は人類普遍ではないということ

だって文化文明に関係なく科学の考え方が自明なのであれば,あらゆる科学の発展がほんの数百年の歴史だというわけがないじゃないですか。物質が原子でできているのは当たり前,地球が太陽のまわりを回っているのは当たり前,そんなの人類の歴史上ではずっと自明な真理だ,となって然るべきなのです。

 

ところが日本では,そんな科学,数多ある考え方の1つにすぎない科学を,学校で教えなければいけないことになっている。時には,科学が絶対真理であるかのような顔をして,子供と向かい合わなければならないかもしれません。すなわち,なぜ学校で科学を教えるのか,という疑問が生じます。

 

なぜ学校で国語,というか日本語を教えるのか,というと「日本語を運用できないと将来その子供が困るから」あたりの答えがまず思いつきますが,別に日本語ができなくても,その子供がアメリカで一生を過ごすなら,何も困らないわけです。日本語を教える理由は,子供自身には内在していない。それは子供を取り巻く環境に理由がある,すなわち「いま子供は日本で生きているし,将来的にも日本語圏で生き続ける」だろうから,日本語を教えるわけです。さらに言うと,子供が日本語を習得できないときに,困るのは子供だけではありません。社会も困ります,後継者がいなくなるから。子供の教育内容を決めるのが行政,教育を施すのが大人,である以上,教育には「社会の後継者を育成する」という意義が含まれている。日本語圏で生きる子供に日本語を教えるのは社会要請なのです。

 

これと同じようなことが,科学の教育に関しても言えると思います。日本社会が,(建前上)科学を是としている以上,次世代の人間に科学を習得させることは社会要請であり,大人の義務です。大人の側は,(冒頭で述べたような相対主義的発想を持っているとしても)科学を,信頼のおけるもの,効用のあるものとして位置づけて振る舞うべきであると,ぼくは思います。科学は,人類にとって必ずしも自然で普遍的な発想ではありません。個人レベルでは,科学ではない価値体系を信仰していてもよい,むしろそういう人間の存在は歓迎されるべきですが(こういう無責任な多文化主義もまた西洋的かもしれない),日本社会が科学の価値観に重く依拠していることを自覚するべきです。そして,科学がある意味で人工的な考え方だからこそ,学校で意識的にリソースを割いて教えなければならない,というのが,現時点でのぼくの考えです。

ぼくの興味の最前線

現時点でのぼくの興味の最前線をまとめました。まとめるのに2週間かかりましたが,その間に最前線は全く前進しませんでした。専門用語の誤用や無理な転用に関しましては,ご容赦いただきますようお願い申し上げます。
 
1. 科学とキリスト教はどういう関係を持つのか
「自然科学という営みは,ヨーロッパの価値観,特にキリスト教ユダヤ教の考え方に大きく影響されているのではないか」という仮説のもと,西洋における科学の興りと発展について,自分の中でまとめたいと思っています。科学界の発展は,便利さの追求とか知的好奇心とか,そういうものよりももっと大きい義務感のようなもので駆動されているように思います(たとえば「この世界の未知を解明することが人類の神に対する義務である」のような)。そのあたりを理解しないと,日本において科学の考え方を布教することは難しいのではないかと思います。もちろん日本で科学の考え方を布教するべきかどうか・するにしてどの程度か,は別の問題ですが,ぶっちゃけ現実的に考えれば日本人は科学の恩恵を多分に受けているので,するべきか否かで言えば間違いなくyesです。
 
したがって,ぼくは科学の枠組みを客観的にある程度つかんだ後に,それを日本の理科教育・科学教育に持ち込みたいと考えています(もちろん先例はすでにあります)。日本にはキリスト教の考え方が深く浸透しているわけではないと思うので,科学の考え方は日本人にとっては異質なもののはずです。異質なものをどう受け入れるか,ということについて考えたいと思います。
 
そこから派生するサブテーマとして,以下の2点を考えています。
 
1.a 日本の理科教育の歴史について
いまの日本の理科教育は,日本的な自然観と,西洋的な科学観とでどう折り合いをつけているのかや,そもそも今の形の理科教育はどのようにして始まったのか。子供たちの発する「なぜ理科を勉強しないといけないのか」に答えることができるのか。「なぜ理科を勉強しないといけないのか」は価値観の問題なので普遍的な答えを用意するのは難しいと思いますが,「なぜ理科を勉強しないといけないことになっているのか」は歴史的な経緯からある程度客観的に示すことができるはずです。
 
1.b なぜキリスト教のような考え方が西洋で興ったのか
それには,そもそも宗教がなぜ発生するのかというポイントと,その宗教の内容がなぜ西洋ではあんなふうなのかというポイントがあります。地理的・気候的な要因などがもし関係しているように捉えられるのであれば,そういうことを学びたい。
 
2. 人類の普遍的な行動原理は存在するのか
たとえばぼくはトマトが嫌いです。「トマトを避ける」という行為は,人類に普遍的な行動でしょうか。そうではありません。ただの個人レベルの行動です。ところが少し広めにとって「嫌いなものを避ける」という行為は,いくらか普遍的,少なくとも「トマトを避ける」よりはよっぽど,人類みんなが遂行している行為だと思います(もちろん100%みんなが嫌いなものを避けるということではありません)。このようにどんどん一般化を繰り返していけば,大多数の人間が従っているような行動原理,というものが得られ,それをもとにして人間の種々の行動を再考察できるのではないか,と考えています。普遍的行動原理としてすぐに予想されるものとしては,人間の本能とされる食欲・性欲・睡眠欲あたりが考えられます。それは確かに普遍的ではあると思いますが,じゃあたとえばぼくは数学が好きだけれども,それは何が駆動しているの?というとおそらく三大欲求だけでは直接に説明できない。ですので,ぼくはさらにもうひとつ,「その行動原理によって人間のあらゆる行動が説明できる」という条件を課します。この条件によって,少し個々の行動に近い「行動原理」を想定することになります(そういうものをぼくは「行動原理」と呼ぶことにしています)。つまりあまりに根源的すぎても,考察の材料としては使い勝手が悪い,ということです。そのような行動原理としては色々なものが考えられますが,ぼくはその中でも,次の側面に注目しています。
 
2.a 贈与と交換=「人間は,他者に何かをあげたい,他者と何かを交換したい,という欲求を普遍的に持っている」
おおよそ経済原論まわりの話だろうと思います(よく知らない)。人間は他者に何かをあげる性質がある。重要なのは「見返りを期待して」とかそういう打算的な動機で駆動する贈与ではなく,ブロニスワフ・マリノフスキが『西太平洋の遠洋航海者』で報告したクラ交易のように「あげることになっているからあげる」のような,贈与のみが問題になる場合を想定しています。マルセル・モース『贈与論』あたりで語られてるんじゃないかなとか思っています(よく知らない)。話を広く,もののやりとり,という側面で考えると,ここに貨幣が入ってくる。ぼくは貨幣ってすごくおもしろいと思っていて,単なる経済活動の潤滑油以外の意味がいっぱい持たされている。今の社会でも,所有権がこんなに流動的なものは貨幣しかないわけです。貨幣論はなかなかドンピシャな本がなくて困っているのですが,ちまちま探していきます。ちなみに交換というキーワードに関して言うと,クロード・レヴィ=ストロースが近親相姦の禁忌=インセスト・タブーの問題を「女性の交換」の一言で片付けたように,何もモノの交換に限らなくてもよいと思っています。むしろ何かの交換自体が行動原理として十分に耐えうるものなのであれば,逆算して全く新しい価値観や経済システムを提示できる。少なくともそういう題材で小説は書けるので,ぜひ深めていきたいテーマです。あ,話逸れた。
 
派生するテーマとしては,消費というか「蕩尽」(ジョルジュ・バタイユのいうところの)とか「捧げもの」にも興味があって,宗教儀式とかでですね,狩りの成果や収穫した農作物の何割かを捧げ物として祭壇で燃やす,とか。謝肉祭とかカーニバルとか。一見今のインテリな価値観では「無駄遣い」と一蹴されそうな行為が,結構世界各地で見られるということは,土地柄以外のファクターが関係しているのではないか,と。それが人類全体に普遍的なものであれば,行動原理としてはおもしろい観点が得られるように思います。すなわち「人間は,何かを一見無駄に破壊したい,浪費したい,という欲求を普遍的に持っている」という結論になる。
 
3. 「おもしろい」とはどういうことか
人間は誰しも,何かをおもしろいと感じ,また何かをおもしろくないと感じます。時には,同じ対象に対しても,おもしろいと感じる時と,おもしろくないと感じる時があります。おもしろいと感じる,とはどういうことなのか。ちょっと考えてみれば,みなさんの好みがまさに十人十色であることから想像できるように,おもしろさの公式化なんてできないと判断するのが妥当だと思います。しかし一方で,人気商品,不人気商品というものがある以上,人の好みには当然偏りがあります。したがって,多くの人間がおもしろいと感じる要素,というものは,言葉で表現できるかどうかは別として,感覚として掴むことができるはずです。その感覚を,自分の好みとは全く別のもうひとつの好みとして,獲得したいと考えています。さらにそれを延長して「じゃあこういうものもウケるはずだ」と外挿することができれば,非常によい。夢ですね,夢。
 
感覚で掴めたら,それをできるだけ言語化して公式にする。ぼくには,おもしろいと受け入れてもらえるものを作りたい,という気持ちがあります。仕事で扱う商品もそうですし,趣味で何かを作ったときにも,どうせならおもしろいものにしたい。なので,おもしろさの公式を少しでも掴んだら,それを創作活動に転用したいし,そこで得られるあれこれを,また公式化にフィードバックしたいと考えています。最終的には,何かしら,おもしろいものを社会に提起することが目標です。作品かもしれないし,価値観かもしれないし,そもそも現在まだ認知されていないフォーマットになるかもしれない。何かしらの形で,まわりの人におもしろさをプレゼントする。
 
ヒントとして,ぼく自身がテレビゲーム好きということもあり,テレビゲームのおもしろさに注目しています。また,ゲームのおもしろさをビジネスに応用しようというゲーミフィケーションゲームニクスの概念にも注目しています。ぼくが今までに読んだゲーミフィケーションの本は,なぜゲームがおもしろいのかという議論に本格的に立ち入っているものではなく,ゲームを要素に分解して,それを要素ごとに企業活動に取り込んでうまくやろうという趣旨のもので,少し残念でした。やや表面的な考察だったように思います。でもまぁ,ゲームを作る側からしても,そのあたりは職人芸というか言葉にできないものだと思うので,明文化されたものがないのなら,自分で感覚的に掴むしかないな,と。そして,感覚的なことはやっぱり自分でテレビゲームをやらないとわからないな,と自分に言い聞かせて家でテレビゲームをしています。
 
以上,ぼくの興味の最前線をなんとか文章に起こしました。自分の頭の整理になりました。よかった。

挫折

就職活動におけるエントリーシートや面接で「これまでの人生での挫折経験を話してください」という質問がよくなされると聞く。確かに、私も就職活動をしていた時期にその手の質問と幾度か出くわし、「挫折なんて大してしてねぇな〜〜〜」と嘯きながら、他人から見ればどうってことのない小さな失敗を、少しのフェイクと沢山の誇張とでもって立派に挫折に仕立てあげたような記憶がある。
 
ところで、手元の辞書『岩波 国語辞典 第七版【新版】』で「挫折」の項目を参照すると、次のように記述されている。
 
【挫折】目的をもって続けてきた仕事などが中途でだめになること。くじけ折れること。
 
あいにく国語辞典をこの1冊しか所持していないため、比較のできないことが残念である。しかし少なくとも、岩波の国語辞書の記述では、挫折とはあくまでプロジェクトの頓挫が主な意味であって、精神的な要素、すなわち敗北感のようなものに相当する意味は、2文目の「くじけ折れること」から少し背伸びをして読み取るのが精一杯のところだと思う。これは私にとっては結構意外なことで、なるほど就職活動でそのような質問を受けても、自分の感情より先に計画の頓挫を客観的に述べないといけないのだなとひとり納得した。ここで私の個人的な挫折のことを書こうかなと思ったけれども、まとまらなかったので、次の機会に。
 
こんな感じで、すごくどうでもいいことをすごくどうでもいいタイミングで、書いていこうと思います。