科学は人類普遍ではないということ

だって文化文明に関係なく科学の考え方が自明なのであれば,あらゆる科学の発展がほんの数百年の歴史だというわけがないじゃないですか。物質が原子でできているのは当たり前,地球が太陽のまわりを回っているのは当たり前,そんなの人類の歴史上ではずっと自明な真理だ,となって然るべきなのです。

 

ところが日本では,そんな科学,数多ある考え方の1つにすぎない科学を,学校で教えなければいけないことになっている。時には,科学が絶対真理であるかのような顔をして,子供と向かい合わなければならないかもしれません。すなわち,なぜ学校で科学を教えるのか,という疑問が生じます。

 

なぜ学校で国語,というか日本語を教えるのか,というと「日本語を運用できないと将来その子供が困るから」あたりの答えがまず思いつきますが,別に日本語ができなくても,その子供がアメリカで一生を過ごすなら,何も困らないわけです。日本語を教える理由は,子供自身には内在していない。それは子供を取り巻く環境に理由がある,すなわち「いま子供は日本で生きているし,将来的にも日本語圏で生き続ける」だろうから,日本語を教えるわけです。さらに言うと,子供が日本語を習得できないときに,困るのは子供だけではありません。社会も困ります,後継者がいなくなるから。子供の教育内容を決めるのが行政,教育を施すのが大人,である以上,教育には「社会の後継者を育成する」という意義が含まれている。日本語圏で生きる子供に日本語を教えるのは社会要請なのです。

 

これと同じようなことが,科学の教育に関しても言えると思います。日本社会が,(建前上)科学を是としている以上,次世代の人間に科学を習得させることは社会要請であり,大人の義務です。大人の側は,(冒頭で述べたような相対主義的発想を持っているとしても)科学を,信頼のおけるもの,効用のあるものとして位置づけて振る舞うべきであると,ぼくは思います。科学は,人類にとって必ずしも自然で普遍的な発想ではありません。個人レベルでは,科学ではない価値体系を信仰していてもよい,むしろそういう人間の存在は歓迎されるべきですが(こういう無責任な多文化主義もまた西洋的かもしれない),日本社会が科学の価値観に重く依拠していることを自覚するべきです。そして,科学がある意味で人工的な考え方だからこそ,学校で意識的にリソースを割いて教えなければならない,というのが,現時点でのぼくの考えです。