もしもですね。

原作ならびに映画の『屍者の帝国』のネタバレを含んでいるとしたら一体あなたはどうしますかと。

 

池袋のシネマサンシャインで映画『屍者の帝国』を観た。伊藤計劃円城塔の共著である原作小説は1週間ほど前に読み終わり,ほどほどにストーリーを忘れた頃に映画を鑑賞するという良い巡り合わせである。

 

原作は,一言でまとめると「読みにくかった」。ぼくはどうも円城塔と相性が悪い。『Self-Referene ENGINE』に手をつけるもまるで頭が追いつかず,滅多打ちにされながらもなんとか読み切る。もう二度と読むかと誓ったのも束の間で『後藤さんのこと』を購入し,こちらは短編集ということもあり,4割ほど進めたあたりで本棚の肥やしになっている。そうなのに,「ほとんど円城塔の文章」である『屍者の帝国』を買ってしまった。映画を観るためという強いモチベーションがあったので最後まで読んだが,円城塔の情景描写とぼくの思考様式が合わないらしく,場面場面がぶつ切りになってしまう印象を受けた。でもまぁ,映画になったらそのへんを視覚で補完できるだろうと思い,意気揚々と池袋の地に降り立ったわけなのである。

 

原作にはいくつも好きな要素があったが,映画化に際してそのほとんどがなくなってしまい非常に残念に感じた。任意の文字列を生成できる暗号文,意識を規定する言語,ザ・ワン=アダム説,etc.。あの厚さの原作を2時間で収めること自体に無理がある中,酷な要求になるのかもしれないが,ザ・ワンが花嫁を求めることも説明不足であったし,ワトソンがウォルシンガムと接触するくだりもずいぶんあっけなかった。日本編なんてどれだけ削ったんだよと。フライデーの設定が変更されていたのは,あれはあれでよかったと思うけど,結局のところ,作品全体の軸に,構築した世界観の説明・冒険ではなく,登場人物の間の関係性・ドラマ性を据えたものになっていて,死んだ友人を復活させるためにがんばる,ただの感動モノになってしまっている感じが否めない。曲がりなりにも原作を読んだぼく,『虐殺器官』『ハーモニー』も合わせて読んだぼくとしては,そうじゃないんだよ,屍者技術の発展した「ありえた世界」をもっと楽しみたかったんだよ,と,叫びたい次第なのである。

 

とはいえそもそも原作が非常にわかりにくいので,よく映像にしたなという気持ちも多分にある。それに比べれば,純に伊藤計劃の著作である『虐殺器官』『ハーモニー』はずいぶんとわかりやすいものなのではないかと思っていて,したがって映画のほうも相当に期待をしている。『ハーモニー』はね,予告だけでしびれたよね。すごく楽しみにしています。