個人的意見の集合体は世論であるかというお話

個人的意見を寄せ集めると世論になるのだろうか。

 

「一般的意見」に同調できないとき,ぼくは「ぼくの感覚は変なんだな」と思う。これは一般的にそうであるということにしておく。一般的意見は,一般的に,多くの人の同意を得られるものだと思う。だから,一般的意見に同調できないときは,ぼくの感覚が一般的じゃないということだ。ある一般的意見に対して,多くの人が同意していないとき,その多くの人の各々が,「ぼくの感覚は変なんだな」と思う,とぼくは思う。その一般的意見が本当に一般的かどうかについて考える人は,ほんのわずかだろう。もしかしたら,誰も同意しない一般的意見があるかもしれない。みんなが知らんぷりしているだけで,実は全然一般的じゃない意見が一般的意見として知れ渡っているかもしれない。そして,一般的意見のもつ力は絶大だ。ぼくの意見も,ぼくの意見と同じ意見をもっている人の意見も,一般的の名のもと,ぺしゃんこにつぶしてしまう。一般的であることは強いのだ。強い。

 

ここまでが前座。

 

理科教育界隈でよく主張される通説のうち,ぼくの大嫌いなものがとりあえず2つある。「日常生活との関連を扱わないといけない」と「理科嫌いを減らさないといけない」の2つである。

 

まず日常生活云々について。端的に言う。ダサい。「日常生活のこんなところに物理/化学/数学etc が使われてますよ〜〜」として提示される例がとにかくダサい。ダサいうえに,そもそも使われ方が全然わからない。製品技術と物理学との間にギャップがあるし,物理学と高校物理の間にもさらにギャップがあるし,そこをなんとか関連付けようとして却って無理が生じてしまっている感じがなんかもう本当にダサい。そんなもので高校生の興味を惹こうとしているのが信じられないし,馬鹿にしているんじゃないかとすら思える。……と当時高校生のぼくは感じた。今でもあまりに薄っぺらいものは嫌いである。書くならちゃんとごまかさずに書けと思っている。

 

次に理科嫌いを減らそう運動について。そもそも理科嫌いを減らさないといけない理由もよくわからないんだけど,それは置いておく。理科嫌いを減らすためにどういうことが行われているかというと,数式を出さずに物理を考えたり,色が綺麗な化学実験をしたり,かわいい小動物の映像を見たり,要は理科以外の部分で引きつけようとしていることが多い。理科の授業を楽しく乗り切ることしか考えてないのだろうかと思うような授業実践が,我が物顔で紹介されていることも少なくない。学年が進むにつれて(=ごまかせなくなるにつれて)無理が発生するのも仕方ないな,とも思えてくる。……と当時大学生のぼくは感じた。今でも過度な実験ショウは嫌いである。授業するならちゃんとごまかさずに授業やれと思っている。

 

ぼくはこういうふうに思っているのだけれど,少なくともどちらも,一般的意見には反しているように感じている。でも,こう思っている高校生とか,大学生とか,大人とか,結構いるんじゃないの,とも信じている。実際はどうなんでしょうね。学生が受けたい教育と,大人が施したい教育って,どれくらい違ってるんでしょうね。